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2008/05/30 08:35
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トヨタ自動車株式会社 (英称:Toyota Motor Corporation) 2008年時点においては世界最大の自動車メーカー 名古屋市中村区の名古屋オフィスをはじめとして世界各地に拠点を有する。 豊田佐吉(静岡県出身 1867年~1930年)が創業した 豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機) に1933年9月に開設された自動車部が起源。 佐吉の息子である豊田喜一郎(1894年~1952年)で、初代社長は佐吉の娘婿である豊田利三郎が就任した。 織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年に自動車製造を開始、1937年に独立した新会社 トヨタ自動車工業株式会社 が設立された。 豊田自動織機製作所は、現在でもトヨタグループ数社が本社を置く刈谷市に所在している。 創始者の名前が由来なので創業当時は「トヨダ」であった。ロゴや刻印も英語では「TOYODA」でエンブレムは漢字の「豊田」を使用していた。 その後、アメリカに輸出し英語で共通したものを作るために新トヨダマークの懸賞を行った際、トヨダではなく トヨタ の読みで作られたアイデアが多く、実際に「TOYOTA」が採用され、日本語も漢字の「豊田」からカタカナ「トヨタ」のエンブレムは社旗となった。 1941年に第2代社長として創業者の喜一郎が就任した。 なお、太平洋戦争時は陸軍用のトラックを生産したが、物資不足のため簡素なものだった。 戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより経営危機に陥り豊田喜一郎社長は辞任した。 辞任直後の朝鮮戦争勃発で軍用トラック特需があり倒産を回避、同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始した。 帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)を中心とする銀行団の緊急融資の条件として 販売強化 のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立された。 これを工販分離という体制は1982年にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併するまで続いた。 融資に協力した三井銀行と東海銀行がメインバンクとなったが、1950年当事、貸付金の回収をした、三菱銀行と住友銀行は三菱は東京銀行と、住友は三井銀行と合併するまで50年も口座の開設・取引をされることはなかった。 喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にはフォードの工場で生産に従事した豊田英二氏が元町に大規模工場の建設を主導し景気回復に伴い、クラウン、コロナ、パブリカなどロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。 1956年クラウンがロンドン-東京間を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。その後中川不器男社長時代にはスポーツ800、カローラ、ハイエース、2000GTなどを発売し、豊田英二社長の時代にはセンチュリー、スプリンター、マークII、カリーナ、セリカ、ターセル、コルサ、カムリ、ソアラなどを投入し、公害問題や排ガス規制などに対処した。販売面では1980年にビスタ店を設立し、トヨタ店、トヨペット店、カローラ店、オート店とともに「販売5チャネル体制」を確立した。 、現在のトヨタ自動車株式会社となった。新会社の社長には喜一郎の長男・豊田章一郎が就任し、佐吉の甥である英二は会長に退いた。国内市場では1982年のビスタ、1984年のハイラックスサーフ、1986年のスープラ、1989年のセルシオ、1990年のエスティマなど次世代のトヨタを担う車種を投入し、販売高トップの座を不動のものにした。 1992年に弟の豊田達郎が社長となったもののバブル経済の崩壊は自動車業界を直撃し、トヨタもその影響を受けた。バブル崩壊後の不況の中、1995年に達郎は高血圧で倒れ、人事異動の直後でもあったため主流とはみなされていなかった副社長の奥田碩が社長職を継いだ。 ただ、奥田は業績が下り坂になりつつあったトヨタを再生させ、1999年のヴィッツ発売を機に張富士夫に社長の座を譲った。 PR |
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