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# アルフォン・ラレー ロシアの香水製造会社
2012/05/20 09:00
アルフォン・ラレー 
   (Alphonse Rallet & Co.)
 ロシアの化粧品製造企業として1843年にモスクワで誕生した。
 1917年のロシア革命後はフランスのニース近くのラ・ボッカに本社を移し化粧品の製造を続けた。
 
 なお、シャネルから1921年に発売された
   「CHANEL N°5」
   「CHANEL N°22」
の調香・開発で有名な
   エルネスト・ボー
が在籍し、調香の修練を積んだことでも知られる。
 
 
     
 
 フランス人実業家の
   アルフォン・ラレー(1819 - 1894)
が、1843年にモスクワのバヤタスカヤ通りにて、石鹸と香水の製造販売をおこなう
   ラレー 社
を創業し、熟練の技術者と最新の製造機械をもって、石鹸と香水の他、口紅、オーデコロン、ポマードなどを生産し好評を博した。
 
 ラレーは自身の健康的問題から、1857年にロシアからフランスへ帰国、イタリアとスイスの国境に近いビヴィエの市長に就任した。
 セルビアン城を買い取り
   ルイス・ビカー
が設立した、セメントやコンクリートの製造をおこなう世界的企業
   ビカー・グループ
の援助を受けて、修理事業を始めている。
 
    
 
 また、ラレーの弟
   ユージン・ラレー
もモスクワで会社の経営に参加していたが、ラレーの妻でマリーの妹
   レオニー・フォルコネット
と結婚し、フランスに戻ってしまいこの時点で経営からラレー兄弟は手を引くこととなった。
 
 以後ラレー社はフランスからの資本と、現地ロシアからの合同資本で経営がおこなわれるようになる。
 
 ・ 香水─香りの秘密と調香師の技
 
 1862年から1863年にかけて、ロシア人資本家の
   フレデリック・デュクチュア
がラレー社の支配人に就任した。

 さらに1898年には、その息子の
   アルマン・デュクチュア
が後継の座を受け継ぎ、事業拡大を進めた。
 
   

 ラレー社は生産拡大のために、当時の香水の主要国であったフランスやイタリアよりも、自国ロシアで香水の生産を可能にすべく、1899年に南ロシアに大規模なプランテーションを開発、1910年までにラレー社は
   675の個々の製品
を提供すると共に、モスクワ工場では1914年までに1600人の労働者を雇用する大企業に成長した。
 
 ラレー社の製品は包装等で優れた品質を誇り、1878年と1900年にはパリで開催された
   品評会にて最優秀賞
を得ている。
 ロシア、ルーマニアやモンテネグロ、セルビアやペルシャ、から中国などでも販売され、名声を築き上げた。
 
 1898年、のちにシャネルの「N°5」を開発する
   エルネスト・ボー
がラレー社の石鹸研究室に入社した。
 なお、エルネストの父
   エドゥアール・ボー
は調香師として、また兄も同様にラレー社に勤務していた。
 
 ・ フォトグラフィー 香水の歴史
 
 エルネストは石鹸研究室を振り出しに、調香の修練を積んだ。ボーは1900年から2年間、故国の兵役で一旦モスクワを離れたが1902年に再びラレー社へと戻り、先輩調香師の
   アントン・ルメルシエ
の下で、同社で香水の開発・研究に携わった。
南仏プロヴァンス
 
 本国フランスで販売されていた
   ルイ=トゥーサン・ピーヴァー
   ホービジャン
   
コティ
などのメーカーから香水を調達し、香りのタイプを嗅き分ける傍ら、またこれまで、単一タイプでしか表現できなかったを香りを複雑化させるべく、アルデヒドの研究を進めた。
 
 1907年、ボーはラレー社の最高技術者に就任し初の香水をロシアで販売した。
 
    
 
 1912年には
   ナポレオン・ボナパルト
のロシア遠征におけるボロジノの戦いから100周年を記念してつくられた香水
   ブーケ・ド・ナポレオン
を発売、これがヨーロッパ各国で大いに売れたことで、1913年には、当時のロマノフ朝誕生から300年を記念して、エカテリーナ2世にちなんだ名づけられた香水
   ブーケ・ド・キャサリン
も発売された。
 
 ・ 世界香水ガイド2★1885 ~「匂いの帝王」が五つ星で評価する
 
 1917年のロシア革命勃発に伴い、ロマノフ朝が滅亡したと同時にラレー社は解体された。
 
 ラレー社に残っていた数十名のフランス人技術者はフランスに帰国、1917年に南仏のラ・ボッカに新たな研究所と工場を設立させた。
 
 エルネスト・ボーもこの研究所に属し、のちにここで香水の試作品として「N°5」と「N°22」のモデルとなる10の香りを開発した。
 これをココ・シャネルに渡すと、この中から5番と22番がチョイスされ、シャネルの香水としての知名度を築き上げることとなる。
 
     
 
 なお、ボーは、1922年に彼の友人である
   ユージン・シャボー
の申し出を受け、パリへと移り、ラレー社を退社している。
 その後1924年にはココ・シャネルの友人で、ユダヤ人実業家の
   ウェルテメール兄弟
により設立された、化粧品の製造・開発をおこなう
   シャネル・ブルジョワ
の技術責任者に就任すしている。
 
 なお、ボーは1925年には、シャネルの香水として今日まで発売され続ける
   Gardénia
を開発している。
 
    
 
 ただ、エルネスト・ボーが去ってからのラレー社は不振に喘ぐこととなり、1926年に
   フランソワ・コティ
が設立した化粧品メーカー
   コティ
に買収されコティの一ブランドになった。
 そのコティも1963年には、アメリカ・ニューヨークに本社を置く、総合医薬品メーカーの
   ファイザー
により買収され、ブランドとしてのラレーの聞かれなくなった。
 
 
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