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2010/10/18 11:04
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プラッシーの戦い 1757年、インドベンガル地方のプラッシーで行われた イギリス東インド会社 とムガル帝国ベンガル太守率いる土侯軍と後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた戦いのこと。 当時、行われていた7年戦争(1756年-1763年 プロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争)とも関係し、イギリス・フランス間の植民地を巡る戦いの1つでもある。 それ以前、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島 インドネシア)にある イギリス商館 をオランダが襲い、商館員を全員殺害した アンボイナ事件 以降、イギリスの香辛料貿易が頓挫し、利権を求めてインドへ本格的に進出する動きを示した。 その先兵になったのが東インド会社で、ボンベイやマドラス、カルカッタに商館を設置、要塞化しながらインド支配の拡大を図った。 また、フランスもカルカッタの近くにシャンデルナゴルを建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒するまで勢力を拡大していた。 ムガル帝国時代、ガンジス川下流域のベンガル地方は 絹や木綿の産地 であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。 ムガル帝国はこの地に太守(ナワーブ)を置いて支配したが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で支配力が低下し、分裂状態となり、各地の太守は実質的に独立勢力化した。 かねて対立関係にあったベンガル太守は、東インド会社の要塞化問題を機に軍事衝突事件を引き起こした。 1757年6月23日、イギリスの軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて、フランス勢力と組んだベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラとカルカッタの北方プラッシーで交戦した。 この戦いではクライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していた。 これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラは16倍(50,000人)もの歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んだ。 ただ、ベンガル太守側兵力の大部分である35,000人の歩兵と15,000人の騎兵を提供していた前ベンガル太守のミール・ジャファールはイギリス東インド会社に内通していたため実際の戦闘行為には参加していない。 このため、ベンガル太守に忠実な部隊は5,000人に過ぎず、実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われた。 1757年6月23日ベンガル太守側の砲撃で7時頃から開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。 しかし、ベンガル太守軍の兵士達は 日頃の訓練不足 と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から豪雨の中に 火薬樽や銃・砲を放置 し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。 雨が止んだ14時頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ミール・ジャファールの大部隊は何もせずに傍観し、スィーラジュ・アッダウラの部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のままイギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。 この戦いでのイギリス軍の損害は、セポイ22人が戦死し50人が負傷したのみで、ベンガル太守軍は500人が死傷し、フランスはインドから撤退することになった。 1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール・ジャファールとアウド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世が東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが勝利した。 イギリス東インド会社が、フランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配が本格化することとなった。 1765年、東インド会社はベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。 その後は、ムガル皇帝は単なる年金受領者になり、インドはイギリスの植民地となっていった。 PR |
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