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2010/10/24 01:51
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江 沢民 (こう たくみん、チアン・ツォーミン) 1926年8月17日 - 中国(中華人民共和国)の政治家 江蘇省揚州市出身で鄧小平引退後の中華人民共和国の最高指導者となった。 江沢民の実父 江 世俊 (1895年-1973年 は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。 叔父の 江世侯(上青) (1911年4月10日-1939年7月29日) は中国共産党の幹部の地位にあったが日中戦争に集団をなして、掠奪・暴行などを行う武装強盗集団である地元 匪 賊 に殺害された。 江沢民は 漢奸の息子 という出自を隠すため、中国の家族慣行では異例ともいえる本家の次男から、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子として公式てきな出自とされている。 なっている。。 楊州中学を1943年に卒業後、日本の友好的な汪兆銘政権(南京国民政府)下で南京中央大学に入学し、日本語を専攻した。 日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業した。 なお、江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。 1946年4月、中国共産党に入党したものの、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。 大学を卒業後、上海市で食品工場や石鹸工場のエンジニアとして働いた。 中華人民共和国建国後の1953年、第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長、。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移った。 江沢民政権下で国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清は長春第一汽車製造廠時代の同僚。 1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受けた。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任。1962年、上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。 なお、1966年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたが 革命烈士の子弟 とされたため、被害は少なかったといわれている。 1982年9月、第12回党大会において中央委員に選出され、1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任、上海市長・党委書記となった、 1985年、上海市の実力者で、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出した。 1989年4月、胡耀邦が死去したことを契機に民主化運動が高まったが、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定した。 当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であった。 胡耀邦追悼の座談会を報じた 世界経済導報 を停刊処分とした行動が陳雲や李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声となった。 6月4日、第二次天安門事件が発生した。 その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。 PR |

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