2013/05/19 06:38
|
航空機年鑑『ジェーン世界の航空機年鑑(Jane's All the World's Aircraft)』の出版100周年記念版で ライト兄弟(ウィルバー・ライトとオービル・ライト) が、世界初の有人動力飛行の成功者という栄光の座から引きずり下ろされた。 新たにその地位に輝いたのはドイツ生まれの発明家 グスターヴ・ホワイトヘッド氏 だ。 なお、ライト兄弟がアメリカ、ノースカロライナ州キティホークの砂丘から飛び立ったのは1903年12月17日のことだが、これまでも、ライト兄弟より2年以上前に、初飛行を成功させていたという説が唱えられていた。 ジェーン年鑑の編集部は、オーストラリアで航空史を研究する ジョン・ブラウン氏 が最近発表した研究成果に基づき、今回の改訂に踏み切った。 ただ、ワシントンD.C.のスミソニアン国立航空宇宙博物館は、米国人ではないと言う理由からか、ホワイトヘッドの偉業に懐疑的で、その大部分が都市伝説だとみている。 同博物館には、ライト兄弟が開発したライトフライヤー号が展示されている。 ジョン・ブラウン氏の研究の発端は、空飛ぶ自動車に関するスミソニアンのドキュメンタリー番組のために クラウチ博士 と共に調査した際、ホワイトヘッドに関して見落とされていた大量のデータを見つけたという。 例えば兄弟の成功よりも6年早い1897年、ホワイトヘッドが飛行試験を実施していたことを示唆する新聞記事があった。 この事実を裏付ける証拠の1つに、1901年8月14日にコネティカット州フェアフィールドで、ホワイトヘッドが開発した飛行機を実際に飛ばしている様子を撮影した写真がある。 当時「Bridgeport Herald」誌が掲載したリトグラフにも当時の様子が描かれているが、写真は現存していない。 しかし、1906年、電気技術者ウィリアム・ハンマーが航空展覧会の展示パネルを撮影した1枚に映り込んでいたという。 ホワイトヘッドの生まれ故郷のドイツ、バイエルン州ロイタースハウゼンにあるグスタフ・ヴァイスコプフ博物館で複写が見つかった。 航空史には1914年頃、飛行試験に失敗した飛行機を改造して博物館に展示し、世界初の飛行機の開発者は元事務局長サミュエル・ピエールポント・ラングレーだと宣言したという失態を演じたスミソニアン協会の負の記録が残っている。 当為ライト兄弟の兄ウィルバーは当時他界しており、弟のオービルは抗議したが、協会は門前払いの仕打ちで応えたという。 その後、オービルは、ロンドンの科学博物館の申し出を受け入れて ライトフライヤー号 を引き渡してしまう。 なお、同機はオービルが死去する1948年まで同博物館に展示されていた。 1948年12月、ライトフライヤー号はアメリカに帰還し、スミソニアンに展示された。 ただし、兄弟の遺族は条件として、世界初はライト兄弟であることを認めさせる契約を協会と締結した。 なお、協会がライト兄弟以外を世界初の成功者や開発者と認めた場合、機体は博物館から即座に撤去されるという。 ひとこと 真実はひとつだが、力関係や解釈で事実がへし曲げられることは多い。エジソンの業績もしかりだろう。 ↓ 参考になったらクリックお願いします。 人気ブログランキングへ PR |
CATEGORY [ 今日の知識、情報 ]
|
忍者ブログ [PR] |