2012/12/22 08:19
|
ドレクセル・バーナム・ランバート (Drexel Burnham Lambert) ペンシルベニア大学ウォートン·スクールを1931年に卒業した IW "タビー"バーナム (I.W. "Tubby" Burnham) が1935年に10万ドルの資本を元手に小規模な投資会社 バーナム·アンド·カンパニー をNYに設立したことに始まる。 この資本は祖父のケンタッキー蒸留所の創設者から96000ドルを借りています。 会社は最終的に100万ドルの資本を構築するまで成功した。 [ 会社は、最終的に投資銀行業務に分岐している。 当時の投資銀行業界は法律で投資が制限され厳格なルールに基づき運営されていた。 証券大手企業が大部分の保証引受で優位性を確保しており中小投資銀行が出る幕はなかった。 バーナムは、事業を拡大するために経営状態が悪化していたドレクセルファイアストンと1967年に合併した。 ドレクセルファイアストンはフィラデルフィア を拠点とした長い歴史を持つ会社で フランシス・マーティン・ドレクセル が1838年に創業した 。 フランシスの息子 アンソニー・ジョセフ・ドレクセル は 、1847年、21歳で銀行経営に加わり、カリフォルニア州の金採掘業務に融資し事業を拡大させた。 また、米墨戦争や南北戦争では戦費融資で連邦政府との間でも金融取引に関与するまで成長した 。 1863年にドレクセルの経営を父親から譲り受けている。 その後、世界有数の金融会社となる ドレクセル・モルガン・アンド·カンパニー をJPモルガンと共同で経営した。 グラススティーガル法により商業・投資銀行業務の分離規制が1940年に実施されたため数人の元ドレクセルパートナーや仲間が "ドレクセル·アンド·カンパニー" という名称で投資銀行を結成した。 なお、商業銀行業務に専念することを選んだ古いドレクセルはその後、モルガンの金融帝国に完全に吸収された 。 新しく誕生したドレクセルがは有価証券の発行者への道を歩みだし、1965年にハリマン、リプリーと合併し ドレクセルハリマンリプリー に改名した。 1970年代半ばにゴム会社 ファイアストンタイヤ が保有する証券会社の株式25%を購入し社名を ドレクセルファイアストン に改名した。 証券不況等を乗り越え紆余曲折ののち1973年ニューヨークに ドレクセル·バーナム·アンド·カンパニー の本社を置き、名前の変更を行った。 1980年代ジャンクボンドの帝王と知られる マイケル·ミルケン が一世を風靡したが 会社は最初1986年5月12日、ドレクセルのマネージングディレクター兼投資銀行家 デニス·レヴァイン がインサイダー取引で起訴され、裁判闘争が始まった 。 ウォール街の 投資銀行マイケル·ミルケンが君臨し米国 で5番目に登りつめたが違法行為への関与によって1990年2月に破産を余儀なくされた。 なお、1987年にマイケル・ミルケン率いたドレクセル・バーナム・ ランバート社がCDOを生み出した。 この債務担保証券CDO (Collateralized Debt Obligation)は、金銭債権で構成される資 産を担保として発行される証券(資産担保証券、ABS)のことでいろい ろなABSを複数を掛け合わせて証券化する金融派生商品の一つである。 この 中にサブプライムが混入したことがリーマンショックに至る証券化バブル崩壊の原因 になった。 ↓ 参考になったらクリックお願いします。 人気ブログランキングへ PR |
CATEGORY [ 今日の知識、情報 ]
|
忍者ブログ [PR] |