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# 松方 正義 
2011/07/03 09:42
松方 正義
 (天保6年2月25日(1835年3月23日)
        - 大正13年(1924年)7月2日)
 政治家、財政指導者 位階は従一位 爵位は公爵
 
 幼 名 金次郎  通 称 助左衛門 
 
 初代の日田県知事、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第4・6代)、内務大臣(第8代)、元老、内大臣などを歴任した。

 薩摩藩の松方正恭、袈裟子の四男として生まれたが13歳にして両親を亡くしている。

 嘉永3年(1850年)、16歳のとき、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得た。
 この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜されたという。
 
 29歳の時、低い身分から
   議政書掛
という異例の出世を遂げ藩政立案組織の一員となった。
  
 慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。
 慶応3年(1867年)、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。

 明治維新政府では長崎裁判所参議から日田県知事に転任、県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港した。
 
 また、日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を発見して調査の末、福岡藩による藩ぐるみの偽札製造の事実を明らかにしたことで大久保利通の評価を得て、その推挙で民部大丞・租税権領に就任している。

 以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では地租改正にあたった。
 その後、財政方針を巡って外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対し、大蔵卿大隈重信と対立する。
 その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。
 
 大隈の失脚の後、財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げ、などによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。

 これらの政策は深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買った。

 松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。
 
 



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