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2011/08/10 06:33
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ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー Henry Alfred Kissinger (1923年5月27日 - ) ドイツ系ユダヤ人 アメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官 1923年に、ヴァイマル共和国(ドイツ)のフュルトに生まれた。 本来の姓名はハインツ・アルフレート・キッシンガー(Heinz Alfred Kissinger)で、苗字はドイツ中央部にある都市 バート・キッシンゲン(Bad Kissingen) に由来している。 父親ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘という。 なお、両親ともにドイツ系ユダヤ人である。 1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが政権を掌握したことから、1938年にアメリカへ移住し、第二次世界大戦中の1943年に同国に帰化した。 移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通った。後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていたという。 第二次世界大戦ではアメリカ軍情報部の下士官として参戦し、戦後母国ドイツに駐留し多くの戦犯の処遇にあたった。 退役後、ハーバード大学に進学、19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、ウィーン体制についての研究で1954年博士の学位を取得した。 1951年には日米学生会議に参加、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行なう サマー・セミナーの幹事役 となり、ワシントン入りにもつながる人脈を形成した。 日本からの参加者としては 中曽根康弘元日本国首相 などがいる。 1968年の大統領選挙で共和党の大統領候補指名選に立候補した ネルソン・ロックフェラー の外交顧問を務めていた。(関連情報) ロックフェラーの敗北後にリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、外交全般を取り仕切った。 国家安全保障会議(NSC)の組織・制度整備を推し進め 国務省などと激しい権力闘争 を行ない、政策決定機関としてのNSCの地位向上を実現した。 以後、ニクソンおよびフォード政権ではホワイトハウスが主導する形での外交政策決定が展開された。 ニクソン政権期の外交では 冷戦政策の再構築を意図した政策 が進められ、キッシンジャーは重要な位置を役割を果たしたという。 1971年にはニクソンの「密使」として、当時 ソ連との関係悪化 が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問した。 中国で、周恩来と直接会談を行ない、米中和解への道筋をつけることに成功した。 一方で、この中国との和解を交渉カードとしてソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。 (なお、日本では1972年9月29日に日中国交正常化、73年10月日ソ共同声明があった) また、60年代最大の外交課題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。 米国が中ソと関係改善を行ない、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを国際的に孤立させたことで、米国はジョンソン政権末期の1968年5月よりパリで行なわれていた和平交渉妥結に成功した。 1973年にはパリ協定が調印され、これを功績として米国交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞することとなるが北ベトナム側の代表であるレ・ドゥク・トは受賞を辞退している。 これら種々の外交成果を得たキッシンジャーは、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任している。 PR |
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