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# 理化学研究所
2013/01/05 06:01
独立行政法人理化学研究所
 
 独立行政法人理化学研究所法により(人文科学のみに係るものを除く)科学技術に関する試験及び研究等の業務を総合的に行うことにより、科学技術の水準の 向上を図ることを目的とした日本で唯一の自然科学の総合研究所。
 物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研究を進めている。

 沿革としては1917年に
   渋沢栄一
を設立者総代として皇室からの御下賜金され日本政府からの補助金、民間からの寄付金を基に
   伏見宮貞愛親王
を総裁に
   財団法人理化学研究所
として東京都文京区駒込に設立された。
 
 初代所長は近代数学を初めて日本にもたらした菊池大麓であった。
  
 
   
 
 
 化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行なう日本で唯一の自然科学の総合研究所で略称は「理化学」または「理研」
 
 1919年(大正8年)、伊丹の白雪で知られる
   小西新右衛門(関連情報
らが発起人となり設立した
神奈川県藤沢市の
   大日本醸造株式会社
の工場敷地内に
   大和醸造試験所
を設立し、合成酒の製造研究を開始した。
 
 1921年(大正10年)に物理学者であり実業家の
   大河内正敏
が3代目所長に就任し、1922年(大正11年)、研究室制度が発足し主任研究員に大幅な自由裁量が与えられた。
 
 ここでの主任研究員は各帝国大学の教員と兼務でもよく、研究室を理化学研究所でなく各帝国大学に置くことも自由になった。
 
 主任研究員が予算、人事権を握り、研究テーマも自主的に決める研究室制度は、理化学研究所を活性化したものの研究費が湯水のように投入された結果、理化学研究所は財政難に陥った。

 1922年、鈴木梅太郎研究室の農学博士
   高橋克己
が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離・抽出に成功した。
 試作品として売り出したところ
   肺結核の特効薬
との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となり大河内所長は工業化を決断し4ヶ月で工業化にこぎつけた。
 
 既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で
   理研ヴィタミン
を販売し、財政難を乗り切ることができた。
 なお、1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出した。
 
 ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったという。

 1927年(昭和2年)に、理化学研究所の発明を製品化する事業体として
   理化学興業
を創設し大河内所長が会長に就任した。
 
 この後、理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す
   理研産業団(理研コンツェルン)
を形成し、最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなった。
 
 理研コンツェルンの事業を継承した会社にはリコー等理研グループと呼ばれる企業群がある。
 
 1937年(昭和12年)に
   仁科芳雄研究室
が日本で最初のサイクロトロンを完成させた。
 その後、1941年(昭和16年)には陸軍の要請を受け、仁科芳雄が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)を開始1943年(昭和18年)に大型サイクロトロンを完成させている。
 
 1946年(昭和21年)、太平洋戦争終結とともに日本は占領され
   連合国軍司令部の指命
により
   理化学研究所
   理研工業(理化学興業の後身)
   理研産業団
は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。
 なお、公職追放された大河内所長に代わって仁科芳雄が第4代所長に就任した。
 
 

   
 
 



 

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