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# シドニー・ジェームズ・ワインバーグ
2008/10/05 08:34
 シドニー・ジェームズ・ワインバーグは、酒の卸業を営む移民、ピンカス・ワインバーグの11人の子供の3番目として1891年に生まれ、ブルックリンで育ち、公立第13小学校で教育を受け、中学を2年で中退した。
 これが彼の最終学歴といわれている。
 
 1907年、安定した職を求めて、当時ニューヨークで1番背の高いビルであった25階建てのビルの2階にあったゴールドマン・サックスの掃除人の手助けとして週3ドルの給料で雇用されたのが就職のきっかけとなった。
 彼の仕事は、痰壷を洗い、パートナーのハットにブラシをかけ、パートナーのシューズの泥をふき取ることであった。

 第一次大戦のころになるとワインバーグは、ゴールドマン・サックスを一旦離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマンの船に乗り込んだ。
 後に海軍諜報部に異動しているといわれている。

 戦争が終わると、既にゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴールドマンに仕事はないかと尋ね何か手伝いたいことを伝えたところ、ヘンリーから、ゴールドマン・サックスに戻る方がよいとアドバイスを受け、ワインバーグはそれに従った。

 1920年にはヘレン・リヴィングストンと結婚し、その後2人の息子が生まれた。2人の息子は、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっている。1927年、ワインバーグは35歳でゴールドマン・サックスのパートナーとなった(入社後20年のこと)。
 ゴールドマンサックスで1929年の大恐慌時に権力を握っていた

    ワディル・キャッチングス

が会社に大変な損害を与えたことで追い出された。
 
 キャッチングスが去った後、ゴールドマン・サックスの資本の殆どがサックス家によるものとなっていた。

 サックス一族はキャッチングスの後任にワインバーグを選んだ。

 サックス家は、後に

     20世紀最大の投資銀行家

となる人物、当時、30代だったワインバーグをパートナーに選び、ウォール街の諸悪の象徴とされていたゴールドマン・サックスを甦らせた。
 彼は1930年から他界する1969年まで会長としてゴールドマン・サックスで君臨し続けた。
 
 

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